虚無と夢幻のフラグメント。ここ大事なのが「ゼロ」こと、齋條ざくろ
ざくろ本人はゼロとは認めてない。
なぞなぞの終着点はゼロ(無)にある。
なかなかツンデレさんの齋條ざくろ
[幻揺の面影]SSR ざくろ
鏡に顔が映ってない。
まるで・・・これが〇・ゼロ
どう読み取るか?
私(本当は神本体)、あなた(ゼロ=神)に来てほしかった。
神本体は、神である事を忘れている人間。 「あなた」神ではあるけど、本体ではない。しかし世界の全てを知ってる。
ナコト原書・・これは 誠(真実)は原神である。 それは神のルールでもある
これを利用できれば、何でも可能。
これは裏の話しですよ。 ここは後で本記事で説明する。
これが寝室1です。
奥まで
奥、せつなく
おく
この寝室2のシーンもいろいろあるのだけど、
「おく」・・この言葉がよくでる。観ればわかります。
おく= お=0(ゼロ) 他には英語O オー、これもゼロ
「く」は何か 久(長い)
要約すると「無が続く」
「奥、せつなく」・・なかなか「せつなく」は言わないよね。 無(0)が切ない。
松尾芭蕉・・ 「おくの細道」 これは「ゼロ(無)の細道」
無に到達するのは簡単じゃないよ。
松尾・・まつお 待つ・ゼロ・・無を待つ
芭蕉・・場所・跡
夏草や兵どもが夢の跡
一般的には、「あるできごとのあった現場のようすが、すっかり変わってしまっていることのたとえ。」
夏草=青(あお)=無
兵ども・・戦場
夢の跡・・これが夢幻。
ということは、戦いは無かった。
平安からの世。関ケ原の戦いは無かった。
戦いが無かった訳じゃない。有名な戦いは無かったのもある。
それは証明できる。
五稜郭の戦い(函館戦争)はあった
第一次、第2次世界大戦もあった。
いろは歌
色は匂へど 散りぬるを我が世誰ぞ 常ならむ有為の奥山 今日越えて浅き夢見じ 酔ひもせず
我が世誰ぞ・・神
有為の奥山(ういのおくやま)・・私達(人間)は無
有為・・・因縁(いんねん)によって生じた、生滅・変化してやまない現実のありさま。
仏教用語なんですが、
これは神の念によって生じた現実・幻想。
考え方としては、神の目線だと、宇宙も地球も人間も生物もすべてが無(ゼロ)である。
だから人間は、本当は苦しみ・痛みはない。神がつくってる。
そもそも人間すべてが神。それもたった一つ・一人の神が全人類を演じている。
であるなら、世界は変えられる。なんでも